prologue オレの記憶
prologue
「あのときも、もう一度確認していれば大丈夫だったかもしれない。」
「あのときも、勇気を出して声をかけていたら何か違ったかもしれない。」
「あのときも、自分が行っていれば…」
リグレットゲージは、あなたが後悔をする度に溜まっていきます。ゲージの上限は、人によって異なります。 もしかしたら、今日この後、あなたのリグレットゲージは限界値を超えるかもしれません。 そのとき、あなたは人生のやり直しを選択しますか?—
いつもと変わらない朝
「パパ、おはよう!早くしないと遅刻するよ。」その日も目を覚ますと一人娘の美桜が微笑んでいた。 大陸はゆっくりと起き上がり、リビングに向かった。だんだんといい匂いが近づいてくる。焼き魚と、大好物の卵焼きの香りだ。今朝の卵焼きには何が入っているんだろうか。
「パパ、おはよう!早くしないと遅刻するよ。」キッチンにも美桜がいるのかと思えば、優月が微笑んでいた。母娘というのはこんなにも似るものなのかと、幸せやら面白さやらで口元が緩んだ。
いつも通りテレビの真正面の席に座り、リモコンを押してぼんやり眺めていると、スマホに通知が入ってきた。 「あっ!」画面に目をやると母親からのメッセージにドキッとした。大事な娘の誕生日をすっかり忘れていたのだった。 「美桜、今日は誕生日だったな!7歳おめでとう!」 「パパありがとう!今日は早く帰ってきてね。絶対だよ!」 「今日はケーキだったよな?」 「うん!今日はケーキで、明日はごちそう!」美桜は年齢のわりにしっかりしてるようにも見えるが、こうしてジャンプしながら喜ぶ様子はやはりまだまだ幼く可愛い。 「今日は誕生日で明日は入学式だもんね。パパ、今日も残業になりそう?大変だろうけど、もし何かあったら連絡ちょうだいね。」 「うん、定時は難しいかもしれないけど、ケーキはみんなで食べられる時間には帰ってくるから。」
小さな後悔
「じゃあ行ってくるよ。」玄関まで行き振り返ると、美桜が両手をあげて待っている。しっかりしゃがんでから抱っこをした。あと何年、こうして抱っこができるんだろうか。娘を抱っこから下ろすと、妻は夫のネクタイを整えた。 「行ってらっしゃい!」美桜も優月も似たような顔で微笑んで大陸を送り出した。
駅まで歩いて向かう途中、大陸はさっきのことを思い返していた。娘の誕生日なんだから忘れるはずがないのだが、昨日の夜も「明日は美桜の誕生日か」と思いながら寝たものだし。 どうしていつも後悔は後からやってくるんだろうか。 まあ、とにかく帰宅すれば誕生日を祝えるのだ。
仕事はいつになく順調だった。このままなら残業は少しどころか、あと一時間、18時の定時で帰れると思ったとき、隣の席の内線が鳴った。電話が苦手な大陸は無視したかったが、2、3コール目で腹をくくった。「すいません渡辺さん今日午後休で。」 「そうなの?二番に菱友ネクストさんからかかってきてるけど、どうする?」菱友は自分がリーダーに入っている案件だ。いつもは事務の渡辺さんが窓口になってメールのやり取りをしているが、電話をかけてきたということは何かあったのかもしれない。 「お世話になっております、佐藤です。渡辺さっ…渡辺がおやっ…ただいま外出中でして…」焦るとつい早口になってしまう。やはりトラブルが発生しているようだが、焦りながら話を続けるとだんだん会話に頭が追いつかなくなってくる。「大変申し訳ありません、本日中に修正して再送いたしますので。」 うなだれたのは電話を切ってからだった。なぜ本日中と言ってしまったんだろうか。先方は明日でもいいと応えてくれていたのだが。
「大陸、何かあった?」営業の吉田がトイレから戻ってきた。「菱友さんから電話あった。納品データにミスがあって、今日中に送る。」 「佐藤さん、申し訳ありません!それ僕やった分ですよね、僕がやります。今日中ですね。」事情を把握した後輩エンジニアが大慌てで横から入ってきた。「菱友さんは俺に任せろ。そんな焦ってやってもまた何かやらかすだろ。進行中の案件は順調だろ?」 大陸は自分が「本日中」と言ってしまったばかりに自分が責任を取るしかないと思っていた。第一、自分がリーダーの案件だ。納品トラブルも確認を怠った自分の責任と感じた。 「佐藤パイセンかっこいいっすねえー!」そう言う吉田は大陸と同い年でほぼ同期の中途入社だ。「吉田、頼むからもうこれから業務中にトイレ行くな。行くなら固定電話も持ってけ。」
遅い帰宅
「お疲れ様でしたー。」いつもは19時過ぎまではほとんど全員が残業しているのだが、ぽつぽつと人が減ってきたところで大陸は気がついた。「しまった…」今日は美桜の誕生日ケーキを食べるんだった。でもあと少しで終わるし、そもそもケーキを食べるだけなら全く問題ないだろう。 一刻も早く終わらせるために作業を急いだ。
データの修正が終わり、メールを立ち上げたところでやっと時刻が目に入った。もう21時目前だった。急いでメールを送ろうと思ったのだが、なぜか送信エラーが2回も出て思ったよりも時間がかかってしまった。 会社の最寄駅まで走りながらスマホに通知が来ていることに気づいた。 『美桜、明日入学式だし、もう寝かせるね』 返事を返す気力すらない。何をするにも遅かったんだ。
家路をとぼとぼと行き、ドアを開けると美桜が駆け寄ってきた。「おかえり!」 「あれ?寝たんじゃ…?」 「パパ、ケーキ食べようねって言ったのは忘れちゃったの?」 「覚えてたけど…」 「覚えてたのに帰って来なかったの?ケーキ嫌いなの?それとも…」 「ケーキは好きだよ!」 「美桜のことお祝いしたくなくなっちゃったんだね。」美桜はムッとしてみせた。 「パパだって仕事で帰れなかったんだ!もう小学生になるってのにそんな言い方は…」 「パパなんて大っ嫌い!」寝室へ駆け込む娘の表情は見えなかった。 「こら!美桜!」 「お祝いしたくないんでしょ!明日もお仕事してて!」 寝室はバタンと閉ざされてしまった。
「おかえり!仕事大変だったね。ご飯用意できてるよ。」リビングのドアが開き、優月がこちらに向かいながら言う。 「美桜、寝室行った?パパが帰るまで待ってるって聞かなかったのよ。本当にパパっ子なんだから…」言いかけて、廊下に流れる空気の悪さに気付いた。「途中で連絡くらいくれても良かったんじゃない?」 「俺ももう寝るわ。」
洗面所の電気を付けると、鏡に見たくもない疲れた表情がうつった。鏡は現実を突きつけてくる。30代に入ってから、急に“年を取る”感覚が目でわかるようになってきた。かと思えば顔つきはまだまだ未熟にも感じる。年を取った分に見合うような成長をできているんだろうか。
真っ暗な寝室に入り、スマホの明るさで寝床を探す。ベッドにあがり、布団をかぶった頃には目が慣れてきていて、娘の寝顔が泣いたままでいるのがやっと見えた。 どうにか笑って眠らせることができなかったかと考えていたら、そのまま自分も眠っていた。
終わりか始まりか
「パパ、おはよう!早くしないと遅刻するよ。」 何年も、何十年も離れた遠くから声が聞こえた気がして、大陸は「もう朝か」とゆっくりと起き上がろうとした。 「あれ?目が開かない。起きられない。」金縛りのようにもがこうとするわけではない。力が入らないのだ。
「起きられない?当たり前じゃないですか、リグレットゲージが限界値を超えたんだから—」